友歩会堀川編Part3・下見&例会レポート H24.10.20(土)&12.1(土)
  天気:晴 下見:晴れ(9名)歩数:38,150歩 例会(59名)の歩数:37,295歩 
コース:名鉄本線神宮前9:15発→熱田神宮→宮の渡し公園→裁断橋→神宮東公園→秀吉母宅祉→尾陽神社→
     小酒井不木居住祉→鶴舞公園→溺死者慰霊碑→掘留水処理センター→清浄寺・矢場地蔵→地下鉄大須観音駅(帰宅)
コースmap(PDF)参照 堀川編P1参照 美濃路&宮の宿 2010の美濃路探訪

用語解説 (詳細資料解説)

熱田神宮堀川宮の渡し公園裁断橋新堀川(WP)名古屋城神宮東公園秀吉母宅祉尾陽神社
堀川と天王崎大王社小酒井不木居住祉鶴舞公園溺死者慰霊碑(精進川)掘留水処理センター新堀川の橋梁
矢場地蔵浪越公園と清浄寺名古屋陸軍造兵廠熱田製造所跡(HP) 友歩会(HP)
★日本武尊(天皇系図)



名鉄神宮前駅(受付)001

コース説明hori121002

熱田神宮へhori121003

参拝してから出発hori121005

初冬の熱田神宮は心地よかったhori121008

常夜灯hori121017

境内の巨木@

境内の巨木A

熱田神宮を後にするhori121022

熱田伝馬町の道標014

時の鐘と常夜灯(左奥)hori121024

新堀川(左)と堀川(右)の合流地点hori121027

熱田湊時の鐘(宮の渡し公園)018

散策マップ(水色の左方が新堀川)002

新堀川(内田橋が見える)021

歩道橋からみた新堀川hori121030

裁断橋祉(解説)031  topへ
裁断橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられて
いた橋。


左は徳川家康幼児期の幽居地跡(六才)織田信秀の人質
となって加藤順盛の屋敷に幽閉されていた。八才の時には
今川氏の人質となって駿府へ行っている。hori121t020

2階部分は姥堂hori121036

初冬の新堀川沿いを歩くhori121036

新堀川036

神宮東公園を行く039

神宮東公園041

神宮東公園042

名古屋陸軍造兵廠熱田製造所跡(赤煉瓦造り)043

陸軍造兵廠熱田製造所跡の碑045 topへ

名古屋市体育館048

新堀川の碑hori121039

熱田空襲で上部が破壊された西福寺石柱051

村雲公園で昼食(全員集合8202

延命地蔵と亀口の泉054

八幡神社と御器所八幡宮058

八幡宮(昼食予定)059  コースmap(PDF)参照

古木と石像が印象的だった061

秀吉母の居宅跡063

尾陽神社065  topへ

那古野山古墳の古木hori121t106

アベマキ(尾陽神社

御賀玉樹(尾陽神社と御器所西城址)070

小酒井不木居住祉076  topへ

八幡山古墳の図と写真084

八幡山古墳(東海地区最大の円墳)086

鶴舞公園を歩く088

鶴舞公園090

初冬の鶴舞公園@

初冬の鶴舞公園A

初冬の鶴舞公園B

加藤高明伯銅像跡(台座)hori121061

竜ヶ池(鶴舞公園)092

胡蝶ヶ池(鶴舞公園)098 topへ

121064

121066

121067

121068

胡蝶ヶ池(鶴舞公園)099

鶴舞公園(噴水塔)100

旧動物園跡(鶴舞公園→東山動物園)102

精進川溺死諸霊慰霊地蔵108

宇津木橋の宇津木の画(新堀川)109

ランの館前を通る114

121076

121077

121080日本初の活性汚泥化法採用

排気筒121085

121086煉瓦造りのマンホールの蓋

再利用レンガの説明121088

121090いのくち式渦巻きポンプ

121094下水処理場西の公園で最後の休憩

121096清浄寺へ

121097

小林城主の墓・芭蕉句碑の案内(清浄寺)117

信長関連の墓121101

清浄寺の黄葉hori121103

矢場地蔵堂(清浄寺)・大須123コースmap(PDF)参照

銀杏の黄葉(清浄寺)hori121t098

清浄寺の黄葉hori121t099

大須繁華街を歩く121104

那古野山古墳(浪越公園・解散)132 topへ
時の鐘と常夜灯(左奥)hori121w025  topへ
村雲公園で topへ
熱田神宮(Web参照)  topへ
御祭神:熱田大神
配祀:天照大神 素盞嗚尊 日本武尊 宮簀媛命 建稻種命
名古屋市熱田区にある。通称、熱田の森に鎮座。
江戸時代には東海道五十三次「宮宿」が栄え、南700mに残る「七里の渡し」から伊勢桑名へ向う交通の要衝に位置し
ていた。古くは伊勢湾に突き出た熱田大地の南端に位置していたという。
南の正門から入り、参道を北へ4・500m歩くと拝殿。拝殿の奥に、瑞垣・内玉垣・外玉垣の三重の垣に囲まれて社殿
が立つ。社殿は、神明造の御正殿(本宮)を中心に、東西に宝殿がある。
元は尾張造という社殿構成だったが、明治二十六年の改築時に三種の神器を祀るお宮として伊勢の神宮と同じような構成
に改められた。 
官幣大社であり、尾張三宮の神社だが。楠の巨木の多い境内は広く、伊勢の神宮に次ぐ格の大社なのだそうだ。
尾張三宮と称するのは、単純に尾張国府からの距離によるものとも。三種の神器の一つである「草薙剣」を祀る神社。
「草薙剣」は、素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治したときに、その尾から取り出し、天照大神に献上された「天叢雲剣」。
その後、皇位の象徴として天孫瓊々杵尊に授けられたもの。日本武尊が、吉備武彦と建稲種を伴って東征の折り、
伊勢神宮斎宮である姨の倭姫命より、この神剣一振と御嚢一つを賜った。
一行が尾張に到着したときに、建稲種の妹・宮簀媛命と知りあい婚約する。
その後、日本武尊が賊による計略で狩のさなかに焼き殺されそうになった時、神剣が、草を薙ぎ倒して日本武尊の命を
救ったことにより「草薙剣」と呼ばれ、その地を焼津と呼ぶ。
東征を終えた日本武尊は、宮簀媛命の元に、この神剣をあずけ、そのために伊吹山の神の祟りによって命を落としてし
まう。宮簀媛命は、日本武尊との契りにより、その神剣を守ってきたが、宮簀媛命が老い衰えてきたので、社地を定め
て神剣を祀ることにした。その社地には、楓樹一株があったのだが、自然に燃えて水田に倒れ、その火がいつまでも消
えず、周囲の水田が熱くなったので、「熱田」と呼ぶようになった。
その後、神剣は、新羅の法師道行によって盗まれたが、無事、天皇家に戻り、宮中に祀られていたが、天武天皇朱鳥
元年(686年)、天皇の病気の原因が草薙剣の祟りであるとして、熱田の社へ戻し、守人七人を置いて、これを祀
ったという。
当社の近くにある断夫山古墳は、宮簀媛命を葬った場所で、日本武尊に忠誠を尽くし、以後、夫を持たなかったため、
断夫という。また、おなじく近くにある白鳥古墳は、日本武尊の御陵であるという。
祭神・熱田大神は、草薙剣を御霊代とする天照大神のこと。建稻種命・宮簀媛命兄妹は、尾張国造の祖である。 
熱田神宮には境内外に、別宮一社、摂社十二社、末社三十一社がある。境内には、別宮一社、摂社八社、末社十八社。
一之御前神社と内天神社の二社に関しては未確認。一之御前神社は本宮の後方、内天神社は大幸田社の近くにあるら
しい。本宮と八剣宮・高蔵宮(高座結御子神社)・日破宮(日割御子神社)・氷上宮(氷上姉子神社)・源太夫社
(上知我麻神社)・紀太夫社(下知我麻神社)は熱田七社と呼ばれ、重要視されている。 topへ

★日本武尊(12代景行天皇の子)と天武天皇(40代)の系図(下記の系図参照)★topへ
熱田神宮(Web)(Wikipedia) topへ
祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ・天叢雲剣)を
神体としている。同項に詳しいが、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも熱田神宮に保管されたままとも言われている。
 相殿神に天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀る。
 113年(景行天皇43年)創建とされ、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎える。
 旧官幣大社、式内社(名神大)で、建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼
ばれる独特の建築様式だった(氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。社務所に当たる組織は熱田神宮
宮庁と呼ぶ。その他施設に、熱田神宮文化殿(宝物館、熱田文庫)、熱田神宮会館、龍影閣があり、敷地内には愛知
県神社庁、神職養成機関の熱田神宮学院がある。
『東海道名所図会』に「熱田大神宮」と記載される。『海道記』に「熱田の宮の御前を過ぐれば」とある。
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宮の渡し公園 (Web参照)  topへ
松重閘門(まつしげこうもん)とは、愛知県名古屋市中川区にある閘門である。現在は使用されていない。
庄内川と都心をつなぐ堀川と、名古屋港と都心をつなぐ中川運河とを結び、近代期の名古屋の産業発展を支えていた
遺構。
中川運河は潮の干満に影響されない閘門式運河です。庄内川の水をかんがい用水として流している堀川は松重町では
中川運河よりも水位が高くこの水位差を調整するのが松重閘門です。両端にそれぞれ上下式の水門を持つ幅8.5m、
長さ90mの水路で船が中川運河から水路に入ると中川側の水門を閉め、地下の暗梁で堀川の水を水路に入れて水位
をそろえたのち、堀川側の水門をあけて船を堀川に通します。
船は約20分で閘門を通過したといいます。水門を開閉する機械装置を取り付けた鉄橋を支持し、水門開閉用の釣り
合いおもりを収容しているのが松重閘門の塔です。

参考:中川運河(Wp) 堀川(Wp)  コースmap参照 topへ


裁断橋  topへ
裁断橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られ
ていた。なお、永正6年(1509年)の『熱田講式』には既にその名が見られるという。擬宝珠の銘文には、天正18年
(1590年)の小田原征伐で死去した堀尾金助という18歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が33回忌に息子を最後に
見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている。 topへ

名古屋陸軍造兵廠熱田製造所跡 1904年(明治37)に東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足し、1923年(大正12)に陸軍造兵廠制度改編によって 名古屋工廠熱田兵器製造所となり、1940年(昭和15)には名古屋陸軍造兵廠熱田製造所となりました。 製造していたものは主に観測車、弾薬車、山砲、航空機用機関砲、そして大戦末期には風船爆弾の気球部分も製造し ていました。現在は中京倉庫として使用されており、残念ながら敷地の中に入ることはできませんでした。 塀の外側から眺めるだけですが、レンガ造りの建造物は味があります。topへ
堀川(Wp)   topへ 愛知県名古屋市守山区にて庄内川から取水する形で発祥し、名古屋市中心部を南へ流れ伊勢湾(名古屋港)に注ぐ。 途中、中川運河と新堀川とつながっている。水深は潮の干満で変化するが1〜3m程度。川の流れも満潮時は逆流する ので、川というより運河である。 流域で、通称・愛称が異なっているのも特徴で、河口から順番に、朝日橋(堀留)までが「堀川」黒川樋門までが 「黒川」庄内用水元杁樋門までが「庄内用水」と呼ばれている。 (堀川に架かる橋はこちらを参照 水源は庄内川であり、庄内川の水分橋(みずわけばし)の西側のダム(「庄内用水頭首工」)でせき止められた水を 取水口(「庄内用水元杁樋門」)より取水し、水路は「庄内用水」として南下。 矢田川の下を三階橋の東側にあるトンネルでくぐり(「伏越」)トンネル出口の三階橋ポンプ場(旧・黒川分水池) 内で、農業用水「庄内用水」と分岐し、水量調整用の水門「黒川樋門」に至り、そこから「黒川」・「堀川」として 海に至っている。名古屋市内のうち熱田から名古屋城周辺までの区間は熱田台地の西側に沿って流れているため、 川の東岸が西岸よりも高くなっている。 1610年(慶長15年)に福島正則が総奉行となり名古屋城築城に際して、資材運搬を目的とした水路として掘削したと いわれる。その後は物資の輸送に使われるようになった。 名古屋市では1994年以降ヘドロの除去を継続して行なっており、以前に比べ水質は改善しているが、まだまだ きれいな川とは言い難い状況ではある。   topへ
下図は天王崎天王社(右上)付近の堀川の賑わい図(舟で物資が運ばれている様子がよく分かる) topへ
topへ
州崎神社(Web)   topへ 洲崎神社(すさきじんじゃ)は名古屋市中区栄にある神社で、「広井天王」や「牛頭天王」とも呼ばれる。 江戸時代、洲崎の天王祭は東照宮時代祭と並ぶ二大祭であった。 由緒:太古この地は入江で洲崎になり、地神(石神)が祀られていた。貞観年間、石神にみちびきにより、 出雲から素戔嗚尊がこの地に遷座、奉斎された。名古屋城築城以前は現在の栄一丁目全域が社地であった。 築城後、社地には武家屋敷が建てられ、境内に堀川が掘削されるなど大きく縮小した。 江戸時代は尾張十社の民社総社的立場にあり、皇室、公家、徳川家より奉納が多数あった。 明治45年、当社に隣接し石神を祀る石神神社を合祀。   topへ その他のWEB解説参照
topへ 江戸時代名古屋城下町(東照宮)にも堀川の位置がよく分かります。


新堀川(WP)   topへ
愛知県名古屋市中区にある堀留水処理センターを起点として、精進川低地に沿って市内を南流し、南区明治にて
堀川へと注ぐ。流路は中区、昭和区、熱田区、瑞穂区、南区の境となっている。
精進川から新堀川へ 
かつて今池辺りを源流として名古屋台地を流れていた精進川(しょうじんがわ)(昔、熱田神宮の神職が6月の
名越の祓の際にこの川でみそぎをしたことからこの名が付けられたと言われる)は多くの湧水による豊富な水量
を持っていたが、曲がりくねった川筋が洪水の原因ともなっていた。この洪水の発生を防ぐとともに、船舶の
航行と下水処理水の受け皿とするため、1883年(明治16年)に運河として改修する計画が建てられ、1910年
(明治43年)に現在の川筋に付け替えられた。新堀川という名称はこの付け替えの際に付けられたものである。
なお、元の精進川は1926年(大正15年)に埋め立てられ、消滅している。 現状 長年に渡るヘドロの堆積の影響
により、特に酷暑期にはヘドロの浮遊が見られる他、異臭も酷い。これは流入する河川が無い上に、運河として開
削された当時に熱田港への合流部から最深部までほぼ水平となるように設計・掘削されていることで、その全域が
感潮域となっているためである。 
2007年(平成19年)4月1日、河川の管理権限が愛知県から名古屋市に移譲されている。   topへ

新堀川の橋梁  topへ 新堀川の両岸を走る道路は堀留下水処理場から新開橋まで右岸が南行き、左岸が北行きという一方通行が設定さ れており、さながら右側通行の形態がとられている。これは、川幅の狭い新堀川は橋の上で右折車の渋滞を回避す るための物と推測される。 舞鶴橋・ 鶉橋・ 記念橋・ 宇津木橋・ 富士見橋・ 大井橋 - 名古屋市道山王線・ 向田橋・ 東雲橋 ・法螺貝橋・ 立石橋 - 愛知県道29号弥富名古屋線・ 熱田新橋・ 高蔵橋・ 新堀田橋・ 牛巻橋・  神宮東橋 - 山手グリーンロード・ 日ノ出橋・ 新開橋・ 文斉橋・ 新熱田橋 - 国道1号・ 熱田橋 ・浮島橋・ 新内田橋 - 国道247号・ 内田橋 - 愛知県道225号名古屋東港線  topへ
神宮東公園  topへ 1985年(昭和60年)に開園した公園で、日本車両製造や東洋プライウッドの工場跡地に造られた。 公園東側には同時期に住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)によって建設された賃貸住宅が立ち並び、公園と 半ば一体化したつくりになっている。また、公園敷地は東西100?150メートル・南北約600メートルと細長く、市道 豆田町線によって南北に分断されているが、人道橋の「三本松橋」によっても結ばれている。 南園には噴水や広場のほか子供向けの各種遊具が、北園には芝生広場や水路、池、菖蒲園などが整備され、テニス コートも設置。また、名古屋市体育館や市営熱田プールも北園の一角に置かれている。topへ
【伝豊臣秀吉母宅跡】 topへ 秀吉の母、大政所は従一位まで叙せられていながら、その素性がはっきりしない。いつごろから御器所の人だと 言われ始めたのか分からないが、天野信景の随筆「塩尻」には「尾州愛智郡御器所村の人也」とある。 また、この後天保年間(1830〜44)尾張藩がまとめた「尾張志」には「この御器所村の古老伝説に、太閤秀吉の 母堂はこの御器所屋敷に住んで秀吉を生み、そこで御所屋敷というようになった」とある。 秀吉の母が持萩中納言の娘との伝説と、中納言の屋敷がここにあったとの伝説が結びついたものと言われている。 topへ   コースmap(PDF)


尾陽神社  topへ
由緒 :明治時代になって旧尾張藩士の請願によって名古屋東照宮に合祀されていた徳川義直(初代尾張藩主)
と徳川慶勝(14代・17代)を祀るための神社として、名古屋開府300年記念事業に合わせて旧藩士による戴恩会
が結成され、1910年(明治44年)に創建。1922年(大正11年)6月30日に県社に列せられたのち、大正13年10月
28日に遷座された。
 神社の資料では別格官幣社に昇格の内示があったものの、太平洋戦争の勃発があったため昇格は叶わなかった
としている。当初造られた社殿は神明造であったが1945年(昭和20年)の名古屋大空襲により焼失し、現在の
社殿は1970年(昭和45年)に再建されたものである。
 1949年(昭和24年)に天照大御神を主祭神として合祀。また、1973年(昭和48年)には徳川家本邸の栄世稲荷
神社を、1976年(昭和51年)には大神神社の摂社である久延彦神社の分霊を受けて摂社として祀っている。
なお、久延彦神社の社殿は枚方市にある山田神社から贈られたもので、元々は約200年前に春日大社の本殿とし
て使われていたものであるという。  topへ


矢場地蔵(清浄寺、矢場地蔵 (ショウジョウジ、ヤバジゾウ)徳寿山 無量院 清浄寺) topへ
清浄寺は、かつては広大な敷地を持っていた小林城跡に位置します。現在は、小林城の姿はなく大須の矢場
とんビルを大津通りをはさんで、反対側にひっそりとたたずんでいます。本堂裏には延命地蔵尊で知られる矢場
地蔵尊、芭蕉句碑が建っています。 topへ


小酒井不木居住祉 topへ   コースmap(PDF)参照
愛知県海部郡新蟹江村(現・蟹江町)出身。出生地は愛知県名古屋市。愛知一中、三高、1914年、東京帝国大学
医学部卒業。推理作家の他に、SFの先駆者とも言われる。東北帝国大学教授であり、医学博士でもある。
当時、生理学の世界的な権威だったという。また、スウェーデンの大衆小説作家であるサミュエル・
オーギュスト・ドゥーゼの作品を翻訳したり、鳥井零水の号で推理小説を翻訳したりしていた。
1929年、38歳の若さで急性肺炎で逝去。死後、改造社から17巻にもおよぶ大著作集が出版された。topへ


鶴舞公園  topへ
鶴舞公園(つるまこうえん)は、愛知県名古屋市昭和区鶴舞(つるまい)1丁目にある、名古屋市が管理する
都市公園。名古屋で、最初に整備された公園である。国の登録記念物(名勝地関係)に登録されている。
日本さくら名所100選に選定されている。
明治42年(1909年)に、名古屋最初の公園として開設された。翌年に開催が予定されていた第10回関西府県
連合共進会の会場とすることを主目的として、また当時の名古屋に存在しなかった大公園を開設することも
含めて整備された。なお、当地に立地された理由は、予定されていた新堀川整備に伴う大量の土砂の処理の
ために、当時沼地であった当地を埋め立てて整備するのが効率的と考えられたからである。
共進会の終了した後も公園整備がすすめられ、動物園の開園(後に東山に移転)、図書館建設、普選記念檀
(普通選挙制度の成立を記念)が名古屋新聞社(現・中日新聞社)より寄贈、名古屋市公会堂の建設
(昭和天皇の成婚記念)と整備された。
戦後の一時期は進駐軍が使用したため市民の利用は制限されたが、現在では八幡山古墳を除く全域が市民に
開放されている。春から夏にかけては、桜、チューリップ、バラ、菖蒲、紫陽花と多くの花を見ることがで
き、4月〜6月にかけては花まつりが開催される。特に桜については、さくら100選に選ばれるほどである。
元々、この地は水流間(つるま)という地名で、公園設置にあたり縁起の良い「鶴」の字を当てて鶴舞公園
(つるまこうえん)とされたが、その後にできた隣接する旧国鉄の鶴舞駅(当初は臨時駅)や、昭和区内の
町名がいずれも「つるまい」としたために、区別無くいつしかつるまいこうえんと呼ぶ者も多くなった。
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加藤高明(Wikipedia)
万延元年1月3日〜大正15年1月28日 (1860〜1926)
 愛知生まれ。外交官、政治家。父は名古屋藩士。東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。
明治19年(1886)岩崎弥太郎の長女と結婚。官界に転じ、大蔵省銀行局長、駐英公使などをつとめる。
33年(1900)第4次伊藤内閣外相となる。35年(1902)衆議院議員に当選。東京日日新聞社長、第1次西園寺
内閣外相、駐英大使、第3次桂、第2次大隈各内閣の外相を歴任。大正4年(1915)貴族院議員に勅選。
翌年に憲政会総裁となる。13年(1924)護憲3派内閣の首相に就任。
翌年普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約を成立させた。


五条橋(web)(以下参考)
名古屋市西区の堀川に架かる五条橋(ごじょうばし)は、かつて清洲城下の五条川に架けられていた橋を、
慶長15年(1610)に始まった清洲越しの際に、この地に移築したものです。そのため五条橋の擬宝珠(ぎぼし)
には、堀川が開削された慶長15年より古い慶長7年の銘が確認できます。
もとは木橋でしたが昭和13年(1938)にコンクリート製に架けかえられました。御影石の親柱、高欄、擬宝珠、
石張舗装などの特徴があり、現在でも昔の雰囲気を感じさせます。

堀川七橋  topへ 五条橋以外にも堀川ができた頃に架けられた橋があります。 堀川七橋(ほりかわななはし)と呼ばれ、上流から五条橋、中橋(なかはし)、伝馬橋(てんまばし)、納屋橋 (なやばし)日置橋(ひおきばし)古渡橋(ふるわたりばし)尾頭橋(おとうばし)があります。topへ


西南隅櫓(名古屋城)  topへ
重要文化財の西南隅櫓(すみやぐら)は、未申(ひつじさる)櫓ともいわれ、屋根二層・内部三階の櫓です。
西・南両面には軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けています。明治24年(1891)、濃尾大地震で石垣
と共に崩壊してしまいましたが、大正11年(1922)から12年にかけて、宮内省によって復元されました。
鬼瓦などに菊花紋が見られます。
戌亥隅櫓(清須櫓)  topへ
櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。3層3階のその規模
は弘前城天守や丸亀城天守も上回る大きさである。1611年(慶長16年)に清須城天守または小天守を移築した
ものと伝えられているため清須櫓とも呼ばれている。


名古屋城(web)  topへ
名古屋城(なごやじょう)は、徳川家康が豊臣秀頼との戦いに備え、東海道の要所として築いた平城です。
慶長15年(1610)に加藤清正・福島正則・前田利常など北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、
慶長17年に天守閣が、さらに2年後の慶長19年に本丸御殿が完成しました。
そして元和2年(1616)、家康の子・義直が清洲から入城し、以来明治維新を迎えるまで、名古屋城は御三家筆頭
の尾張徳川家の居城として栄えました。
第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月、名古屋空襲によって多くの建物が焼失しましたが、昭和34年(1959)
10月に天守閣・小天守・正門・金鯱が再建されました。表二之門と東南・西南・西北の隅櫓3棟が重文に指定され
ています。なお、本丸御殿の復元工事が平成29年(2017)の完成を目指して進められています。

名古屋城(wikipedia) topへ
堀川ウオーキング参照(H24.2.4)
あつたウオーキングマップ (堀川は左上から、新堀川は右側から流れている)topへ

topへ    コースmap(PDF)参照

熱田伝馬町道標  topへ
裁断橋跡  topへ
尾陽神社  topへ
尾陽神社と御器所西城跡  topへ
八幡山古墳  topへ
鶴舞公園案内図  topへ
小林城跡  topへ
浪越公園跡  topへ
浪越公園(那古野山古墳)浪越山盛衰記(PDF)参照たぬき山(俗称)参照

浪越公園(那古野山古墳)(WP)  浪越山盛衰記(PDF)参照  コースmap(PDF)参照
概要
 「大須古墳群」の内の一つで5世紀中?後半に造営されたと考えられている。元は前方後円墳であったが、
江戸時代に禅寺・清寿院の後園が造営される際に、前方部は取り壊された。清寿院に取り込まれて
「浪越山」と呼ばれたのが現在では後円部とされる部分で、直径22メートル、高さ3メートル。
明治5年(1872年)に清寿院は廃され、明治12年(1879年)に愛知県下初の公園(浪越公園)として開放
された。明治43年(1905年)に鶴舞公園が開園すると浪越公園は廃止されたが、大正3年(1910年)に
規模を大幅に縮小して、名古屋市設置の那古野山公園となった。
現在では三方をビルなどに囲まれた状態となっている。
年表
 6世紀頃 - 造営
 江戸時代 - 清寿院の後園が造営される
 1879年(明治12年) - 浪越公園として開放
 1905年(明治43年) - 浪越公園が閉園
 1910年(大正3年) - 那古野山公園が開園

清寿院と浪越山(Web)参照


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